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★ワイン屋 (2003.01.31)
★映画『めぐり逢う大地(The Claim)』を見た (2003.01.25)
★映画『黄泉がえり』を見た (2003.01.24)
★映画『ギャング・オブ・ニューヨーク(Gangs of New York)』を見た (2003.01.18)
★映画『バティニョールおじさん(Monsieur Batignole)』を見た (2003.01.13)
★映画『ディナーラッシュ(DinnerRush)』を見た (2002.12.28)
★映画『マーサの幸せレシピ(mostly martha)』を見た (2002.12.21)
★映画『たそがれ清兵衛』を見た (2002.12.14)
★サクサク歩いてよね (2000.05.28)
★la Vita e' Bella(ライフ・イズ・ビューティフル) (2000.04.02)







★ワイン屋

自分はインターネットでワインを買うことが多いんだけど、いまだに配達日時指定を受けないワイン屋があるのが信じらんない。それもね、町の小さな酒屋とかじゃないよ。大手通販店の某My Wine Clubとか、ハナマサとか(どこが“某”だ? - 笑)。

とくにMy Wine Clubなんてワインの専門店で、それも比較的お値段の高い高級なワインを多く扱ってるお店。通販カタログも無料版・有料版の2種類があって、うちの近所の小さな本屋にも有料版が置いてあるくらいだから、かなり大手なんだろ、きっと。

なのに、配達日指定は承れませんだって。「商品はご注文受付け後、7日前後のお届けになります」だってさ。そんで、指定できるのは「夜間(18時から20時)」「平日」「土日」のうちのどれかひとつだっていうんだぜ! そんなの、指定がないのと同じじゃん。

高級ワインを扱っている店だから当然、商品管理には気を配っていて、「お店にあるワイン」はきちんと温度管理等のされた専用のセラーに入れてあるんだろう。でもさ、お店から出荷されたワインが受取人不在で運送業者に持ち帰られて、温度管理もなにもない業者倉庫で夜明かしなんてことになったらサ、意味ないじゃん。配送日のめぐり合わせが悪ければ、1週間ぐらい受け取れないことだってあるのに。

結局、こういうお店はさ、お客から金さえ取れれば、店から出荷されたあとのワインのことなんてどうでもいいんだろうね。お店を出てからお客のセラーに入るまで、いい状態でワインを届けたいなんて気持ちはないんだ。店から出荷して代金さえ手に入れば、お客の手元に届くまでに劣化しようが知ったこっちゃねぇよって了見なんだろうな。

(2003.01.31)




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★映画『めぐり逢う大地(The Claim)』を見た

映画『めぐり逢う大地』を見てきました。

『The Claim』
監督:マイケル・ウィンターボトム(Michael Winterbottom)
主演:ピーター・ミュラン(Peter Mullan)、サラ・ポーリー(Sarah Polley)、ミラ・ジョヴォヴィッチ(Milla Jovovich)、ウェス・ベントレー(Wes Bentley)
2000年・アメリカ映画
121分

もうちょっと壮大なドラマかなと思ってたんだけど、けっきょくはこれってラヴ・ストーリーなんだろう。

ゴールドラッシュの時代に、金脈の採掘権と引き換えに妻子を売った男が、その金をもとに、金脈のあった町「Kingdome Come(神の国が訪れる)」の支配者になった。しかし時は流れ、町が栄える条件が金脈ではなく鉄道になったとき、その変化に有効に対応できず、また過去の罪(妻子売り飛ばし)にもさいなまれ、けっきょくは朽ちていくというストーリーは、いかにも文芸映画風。

登場人物の相関図がはっきりしてるし、それぞれが映画のストーリーの展開にきちんと貢献しているので、そういう意味ではとてもわかりやすい映画だと思う。

でもなぁ、全体的に、あまりに情緒的すぎる気がするんだよなぁ。核となるストーリーも、それを彩るひとつひとつのエピソードも、そのうえ音楽までも。もっと壮大で厳しい空気を期待していた分、ちょっと落胆は大きいかな。

映像も、カナディアン・ロッキーに実際に町のセットを立てて撮影したらしいけど、そのわりにはあまり質感を感じられなかった。

そういえば、映画の背景となっているのが同じ19世紀半ばのアメリカということで、『ギャング・オブ・ニューヨーク』と比較するような文章をどこかのサイトで見たのだけど、それってあまり意味がないように思う。映画の主題がぜんぜん違うから。

ぜんぜん違うんだけど、それでもあえて『ギャング・オブ・ニューヨーク』と比較するのであれば、『ギャング・オブ・ニューヨーク』のほうが圧倒的に映画として質感が上だろう。映像の質感もそうだし、俳優人の質感も。それに、あとに残る余韻という意味でも。

この映画も、悪い映画じゃなく、たぶん、どちらかといえばいい映画なんだろう。乱暴な言い方だけど、『ギャング・オブ・ニューヨーク』は男性向きの映画で、これは女性向の映画かな。少なくとも、自分の好みのタイプではなかった。

(2003.01.25)




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★映画『黄泉がえり』を見た

映画『黄泉がえり』を見てきました。

監督:塩田明彦
主演:草g剛(くさなぎつよし)、竹内結子(たけうちゆうこ)
2003年・日本映画
125分

う〜ん、基本的な流れはいい話だと思うんだけどなぁ。

主演の草なぎ君の芝居がもうひとつ。それ以上に極楽トンボの山本さん、ダチョウ倶楽部の寺門さんの芝居はひどい。意外と石田ゆり子さんも芝居が下手で、哀川翔さんも。

もうひとりの主演、竹内結子さんだけが最初から最後までちゃんと「芝居」をしていた。ちゃんと「役」に入っていたし。ほかのキャスティングがことごとく間違いに思えるなか、竹内さんだけは役を自分のものにしてたかな。

ちなみに竹内結子さんって、ねずみ顔であんまりかわいくないと思ってたんだけど、この映画ではかわいく見えた。おでんを食べるシーン、最後のシーンも。

それにしても脚本が悪いな。とっ散らかりすぎ。あっちでもこっちでも黄泉がえりすぎ。伏線(にもなってなかったけど)張りすぎ。草なぎ&竹内の物語にもっと絞り込めばよかったのに。

山本&石田&哀川のサブストーリーはそれなりに意味があったけど、メインストーリーに厚みを持たせるためにしては、サブストーリーを演じる人たちの芝居がみんなヘタ。これはきつい。

それと、田中邦衛さんや田辺誠一さん、柴咲コウさんといった役者も出演しているのに、ほとんどスポットみたいな扱いで、きちんと芝居をする暇もなかった。ほかにも名の知れた俳優・タレント、それに伊藤美咲さんなどの人気者(かっこ悪い表現だ)も登場するけど、どれも本筋(草なぎ&竹内ストーリー)には関係なく、おまけのようなもの。たんに監督が「有名人がいっぱい出てるんだぞ」っていうことに喜びを見出したかっただけって感じがするぞ。

おまけ……そう、なんか全体が「おまけメイン」な感じなんだよな。本体が弱すぎ。もっとちゃんと「草なぎ&竹内ストーリー」を描いてほしかったし、「山本・石田&哀川ストーリー」や「柴崎&キーボーディスト(誰?)ストーリー」を描くなら描くで、これもちゃんとしてほしかった。ていうか、この3つの物語でそれぞれ別の映画がつくれるぞ。

映像も、なんか心がこもってないんだよなぁ。見た目はそれなりなんだけど。

たとえば大林監督の尾道三部作とかを見ると、目に見える風景・景色といった映像の奥に、憧れや驚き、喜びといった心が感じられたりするのだけど、この映画からは目に見える風景・景色以上の奥行きや深みが伝わってこない。

竹内さんの役どころについては最初のワゴンに乗っているところですでにわかったし、物語の結末も想像がつくのだけど、それでも切なさがあって、話自体はそんなに悪くない。でも、ちゃんと芝居のできる役者をキャスティングして、描くべき物語とサブストーリー、バックストーリーの比重を明確にして、もっと想いを感じさせる映像を撮れる監督につくらせたら、もっと味わいのあるよい映画になっただろうにな。残念。

(2003.01.24)




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★映画『ギャング・オブ・ニューヨーク(Gangs of New York)』を見た

映画『ギャング・オブ・ニューヨーク』を見てきました。

『Gangs of New York』
監督:マーティン・スコセッシ(Martin Scorsese)
主演:ダニエル・デイ=ルイス(Daniel Day-Lewis)、レオナルド・ディカプリオ(Leonardo DiCaprio)、キャメロン・ディアス(Cameron Diaz)
2002年・アメリカ映画
2時間40分

物語の中心人物は、ニューヨークの「ファイブ・ポインツ」という街を仕切り、アイルランドからの移民を憎むアメリカ生まれのビル(ダニエル・デイ・ルイス)と、アイルランド移民のリーダーとしてビルと戦い殺されたヴァロン神父を父に持つアムステルダム(レオナルド・ディカプリオ)のふたり。

幼いときにビルに父を殺され投獄されたアムステルダムが15年ぶりにファイブ・ポインツに戻り、身分を隠してビルの組織に入り込み、ビルにかわいがられ、しかし身元がばれて最後は対決。……ていうのがストーリー部分だと思うんだけど、こういったストーリーの部分ってじつは、あんまり重要ではないような気がする。

正直にいって、自分には少し難しかった。

おそらく、アメリカ建国の歴史をはじめとした、さまざまな知識と教養を見るものに要求する映画じゃないのかな。それがあるかないかで、楽しめるかどうかが大きく変わりそう。残念ながら自分は歴史や地理といった社会科系がめちゃめちゃ弱いので、この映画の持つ意味や背景をつかむことはできなかった。

なぜディカプリオの役名が「アムステルダム」なのかとか、ビルの義眼に彫られていた紋章とか、大天使ミカエルのメダルとか、そもそもどうして舞台がニューヨークかとか、きっと知識のある人なら、これらに意味や暗示を見出せるんだろうと思われるものがあちらこちらにちりばめられているのに、それらがわからない。だから、いま目の前で展開されているシーンとストーリーを追っていくことしかできない残念さ。

たとえば、もっとビルやアムステルダムという人物に焦点を当てて、より深く人物を描くとかしたなら、ヒューマン・ドラマとしての楽しみ方ができたかもしれない。あるいはストーリー展開にもっとメリハリをきかせて、わかりやすい物語になっていたなら、ドラマとしての楽しみ方もできたかもしれない。でも、そういった部分があいまいというか、薄いというか、描き方がとても淡々としている。

だからといって楽しめない、退屈な映画かというと、そうでもない。ストーリーやテーマを明確につかめないのだけれど、これがテーマなのだろうか、それともこういうことをいいたかったのだろうか、知識があれば別のテーマにも気づけたのだろうか、といったことを考えさせるに充分な映画だ。エンディングも、よくわからないんだけど、でも余韻がある。

けっきょくは、淡々と描いたことで見る側に考えさせ感じさせる余地を持たせているわけだ。それだけで充分によい映画だといえる。

この映画のなかでは重要な役どころであり、またファイブ・ポインツのギャング、政治家、警察までも支配下に置いている実力者のビル。きっと、彼のことだけを追いかけてもドラマティックな映画が1本つくれることだろう。でも、そうしない。

ファイブ・ポインツでのアメリカ人対移民との戦いがこの映画における主要な舞台だが、それもニューヨークという都市で起きた大きな暴動に取り込まれていく。さらにニューヨークでの戦いも、南北戦争というもっと大きな戦いにとりこまれていく。つまりはビルもファイブ・ポインツも、現在に至るアメリカという国をつくりあげてきたひとつのコマ、構成の一部に過ぎない。

映画を見ている最中は「人」があまり深く描かれていないのが不満であったけれど、見終わったあとには、わざと深く描かなかったのかもという感想を持った。それにより、より大きな時間の流れ、奥行きと広がりのあるテーマを表現できたのではないかと。

アメリカに夢と希望を求めて渡ってきたアムステルダムの父・ヴァロン神父も、アメリカ生まれのビルも、どちらも「自分たちの国」として、自分たちのやり方で「アメリカ」を愛していた。しかしビルはヴァロン神父を殺し、ヴァロン神父の息子アムステルダムはビルを殺した。そうしたことの長い積み重ねのうえに、いまのニューヨークが、アメリカが成り立っている。それがいいとか悪いとかではなく、ただ「そうであったんだよ」ということ。そういうスタンスが、かえって胸を打つ。

ところで、ビルが誇りに思う「アメリカをつくったアメリカ人」も、もとはヨーロッパ(主にイギリスか?)からの移民。「アメリカ」で生まれ育ったビルがアイルランド移民を嫌うのは、先祖がアメリカにわたってくる前の、イギリス(イングランド)とアイルランドの戦いの歴史が遺伝子のなかに組み込まれているからなのかもしれない。

あと、「アメリカ」が認めないものに対しては武力を行使するというスタンス。ファイブ・ポインツでの「アメリカ」対移民の戦いはもちろん、それを含むニューヨーク各地の暴動に対しても、国としての「アメリカ」に敵対するものとして武力・軍事力で押さえ込む。やっていることは、この映画の舞台である1800年代なかごろも、いまも、変わっていない。でも、それが「アメリカ」なんだということなのだろうか。

そういえば、この映画の日本でのキャッチコピーは「この復讐が終われば、愛だけに生きると誓う」という、わけのわからないもの。配給もとはいったいなにを考えてこんなコピーをつけたんだろう。自分のいる出版業界もそうだけど、お客を馬鹿にするのもいい加減にしてもらいたいものだ。

キャメロン・ディアス演じる女スリ・ジェニーとアムステルダムの恋愛なんて、全体の物語のなかではそれほど重要ではないと思う。あくまでもストーリーを先に進めるための役どころではないか。

そして「復讐」についても、本当にアムステルダムは強い復讐心を持ってファイブ・ポインツに戻ってきたのだろうか。復讐を果たす目的を持ってビルの組織に潜入したのだろうか。実際は、ほかに行くところがなくてファイブ・ポイントに戻り、ほかに生きる方法がなくてビルの組織に入り、なんとなくビルの右腕になってしまったということではないんだろうか。

もちろん、父を殺されたことに対する恨みは持っていたにしても、それが大きくなりビルに復讐しようという気持ちになったのは、ビルの組織内である程度のちからをつけたあとに、父のむかしの仲間にたきつけられ、ジェニーのことでビルに嫉妬し、少年時代からの友に裏切られという外的要因によるような気がする。そういったことも含め、ビルもアムステルダムも、当人が望む・望まないにかかわらず、「歴史のうねり」に飲み込まれていった人なのではないか。

思えば、この映画にはいろいろな部分で「歴史のうねり」が感じられる。それがストーリーの薄さや焦点となるテーマのよくわからなさにもかかわらず、見終わったあとに「しっかりとした映画を見た」気分にさせるのだろう。にもかかわらず、日本の宣伝コピーが「この復讐が終われば、愛だけに生きると誓う」という、なんとも安っぽいものになってしまったのが残念。ぜったいお客をミス・ディレクションしていると思う。

ちまたでは「名作」「大作」「失敗作」「駄作」と、評価がかなり分かれているようだけど、どことなく『地獄の黙示録』を思い出してしまうような高い質感があり、自分としては楽しめるし、いろんな意味で気になる作品でした。

(2003.01.18)




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★映画『バティニョールおじさん(Monsieur Batignole)』を見た

2003年になって最初の映画鑑賞はフランス映画の『バティニョールおじさん(Monsieur Batignole)』にしました。

2002年・フランス作品
監督:ジェラール・ジュニョ(Gerard Jugnot)
主演:ジェラール・ジュニョ(Gerard Jugnot)、ジュール・シュトリック(Jules Sitruk)
上演時間:103分

1942年、夏。ドイツ占領下のパリ。強制収用を逃れたユダヤ人の子供を肉屋のおじさんが匿い、スイスに逃亡させるという話。テーマとしては重いのだけど、物語自体は重くなりすぎず、適度にコミカルで、楽しんで見られる。

映像も綺麗だし、なんといっても主役の肉屋のおじさん、エドモン・バティニョール(Edmond Batignole)を演じたジェラール・ジュニョ(Gerard Jugnot)がいい味を出していた。
この人は監督も兼ねているのだけど、演技もうまい。前半の、自分の予期していなかった事態に右往左往する人のいいおじさんから、後半になって自分の意思を持ち行動を起こすおじさんになるまでのなだらかな変化が上手に表現できていた。

そんなわけで全体におもしろく見られたし、よい映画だと思うしで、全体としては満足なんだけど、収容所から逃れてきたユダヤ人の子供、シモン(Simon)がねぇ。

この役をやったジュール・シュトリック(Jules Sitruk)という子役は、なかなか芝居が上手だと思うのだけど、シモンという子供自体が、自分はだめ。場が読めない、分をわきまえない、自分の状況と立場を理解しない、でも要求はする(もしくは状況・立場を理解したうえで大人を脅迫する)。こういう子供が自分はだいっ嫌いなんです。
そのため、シモンを一生懸命助けようとするバティニョールおじさんの心情にももうひとつ共感を持ちきれず、映画自体にも入り込めきれなかった。

シモンがもう少し違う子供に描かれていたら、もっと心に響いただろうにな。残念。

(2003.01.13)




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★映画『ディナーラッシュ(DinnerRush)』を見た

映画『ディナーラッシュ(DinnerRush)』を見てきました。

2001年・アメリカ作品
監督:ボブ・ジラルディ(Bob Giraldi)
主演:ダニー・アイエロ(Danny Aiello)、エドアルド・バレリーニ(Edoardo Ballelini)
上映時間:99分

ニューヨークのイタリアン・レストランを舞台に、トラディショナルなイタリアンを愛するオーナー(父)と、店にヌーベル・キュイジーヌを持ち込み繁盛店にさせ、はやくこの店を自分のものにしたいと願っている才能のある若いシェフ(息子)のストーリーを中核に、店の乗っ取りをたくらむギャングや、どうしようもない博打打だけどトラディショナルな料理を上手につくれるスーシェフといった登場人物たちが話に厚みとふくらみを持たせます。また、博学なバーテンダー、カウンターにずっと座っている金融屋、いやみな画商など、ちょっとした脇役もとても魅力的。

ストーリー展開のテンポがよく、また語りつくさないところがいい。いろいろな言葉や動きに余白があって、その余白をどう読むか(あるいはまったく読まないか)によって、楽しめ方も変わってきそう。こういう「自分で広がりをつくれるストーリー」って、最近のアメリカ映画にはあまりないんだよな。
それと、画面のちょっとくすんだ色彩も、いかにもニューヨーク的(行ったことないけど)。

軽くスッキリ見ても楽しめる、いろいろな背景や心理描写を考えながら見ても楽しめる、なかなかおもしろい映画だと思う。
これまで自分が築き上げてきた過去とその副産物に自分でけりをつけて、息子に店を引き渡した父(オーナー)役のダニー・アイエロ(Danny Aiello)が、すごくよい芝居をしていた。

物語とは関係ないけど、自分はあの店じゃ働きたくないな。
あれだけのお客をさばくにしては、キッチンが狭すぎるように思うし、そのわりにコックがいすぎ(あれじゃ動けない)。そのうえ、シェフもスーシェフもしょっちゅうキッチンからいなくなっちゃって、いつ戻ってくる のかわからない。
ホールにしても、料理をもって2階まで狭い階段を行ったりきたりしなくちゃいけないつくりはつらい。

あと、お客としても行きたくない。だって料理が美味しそうに見えない。いかにもニューヨークスタイルというか、見た目やめずらしさ重視で「気持ち」があまり感じられない。息子に店を渡したくなかったオーナーの気持ちがわかるぞ(笑)。
それに、店が騒がしすぎ。あんな落ち着かない店いやだ。楽しいにぎやかさと、あの店の騒がしさは、質が違うぞ、きっと。

(2002.12.28)




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★映画『マーサの幸せレシピ(mostly martha)』を見た

映画『マーサの幸せレシピ(mostly martha)』を見てきました。

2001年・ドイツ作品
監督:サンドラ・ネットルベック(Sandra Nettelbeck)
主演:マルティナ・ゲデック(Martina Gedeck)、セルジョ・カステリット(Sergio Castellitto)
上映時間:105分

コピーは「完璧なはずの女性シェフ、マーサのレシピにはひとつだけ欠けているモノがあったのです…。」というものだったけど、たぶん、レシピには欠けているものはなかったと思う。生活や心には欠けていたものがあったけど。なんとなくピントはずれなコピーな気がするのは自分だけ?
べつに食べ物映画じゃないですよ、これ。マーサの抱える問題が解決しても、レシピにはなんの変化もなかったみたいだし。

話自体はけっこうおもしろかったです。なんでオーナー命令でカウンセリングに行かされているのかとか、下の階に住むおっちゃんになんの意味があったのかとか、腑に落ちないというか、突っ込みどころはいくつかあったけど、全体をなんとなくいい雰囲気が包んでいて、楽しく、気分よく見られた。

主人公のマーサはドイツ人で、舞台のレストランもドイツにあるという設定のようだけど、フランス料理の店らしく、セリフはドイツ語とフランス語がまじっていたみたい。そこにイタリア人シェフまで入ってきて、イタリア語までまじったのが、なんか自分にとってはかえって聞いてて気持ちいい。

イタリア人シェフが入ってきてからは曲もイタリアのものが多く流れ出した。最後のスタッフロールではRon(ロン)の曲が使われたことしか確認できなかったけど、たぶんPaolo Conte(パオロ・コンテ)も使われてると思う。

そしてやっぱりイタリアンは美味しそうです。イタリア人シェフのつくる賄いやプライベートの料理はよだれもの。夜7時からの回を食事をせずに見に行ったので、ほんと途中でおなかがすいた。

そして最後のほうで結婚するイタリア人シェフが店のスタッフらを招いて庭で太陽の下でみんなで食事をするシーン。明るい陽の光に緑の美しい庭、ラベルの貼られていない透明のボトルに入った手作りのワイン。これですよ、これ。
昨年、トスカーナ州のアレッツォで、知り合いのDonyの家のガーデンに招かれて太陽の下でみんなで食事をしたときの楽しいランチが思い出されました。

レストランメニューではない家庭料理としてのイタリアンはやっぱおいしいぞっていう映画でした(そうなのか?)。

(2002.12.21)




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★映画『たそがれ清兵衛』を見た

見てきました、映画『たそがれ清兵衛』。

2002年・日本作品
原作:藤沢周平
監督:山田洋二
主演:真田広之、宮沢りえ
上演時間:129分

けっこう混んでたな。劇場には年配のご夫婦の姿がけっこうたくさん。奥さんが「映画館なんて来るのひさしぶりねぇ」なんて旦那に話しかけてました。

そんで、「たそがれ清兵衛」。すっかりたそがれちゃってる清兵衛さんの話かと思ったら、仕事上がりのたそがれ時になると寄り道もせずまっすぐお家に帰る清兵衛さんっていう意味だったのね。ま、それ はいいとして。

なんていうか、すっごく日本ぽい映画でした。世間の評判はすごくいいみたいだけど、まぁ普通かなって感じ。
なんだろうなぁ、登場人物のキャラがあまり立ってないっていうか、人物にあまり深みや奥行きが 感じられなかった。

清兵衛役の真田広之、もっともっと奥行きのある人物に描けたんじゃないだろうか。戦わねばならない状況に追い込まれる前の、貧しくも平穏な日々のときからすでに顔つきが険しいんだよなぁ。目とか、かもし出す空気が「戦う人」なの。それで侍よりも畑仕事のほうが好きですといわれても……。

宮沢りえも、綺麗なんだけど、あんまり伝わってくるところがなかった。
果たし合いに出かける清兵衛の身支度を整えるシーンなんて、もっと画面全体から伝わるものがあってもいいはずなのに。『化粧師』で菅野美穂がひそかに思い続けた化粧師・小三馬から最後の化粧をしてもらうシーンくらいの「思い」が感じられたらなぁ。

あと、モノローグを含め、いろんな部分で語りすぎ。そんなに全部、言葉でいわなくても。自分でイメージする余地がどんどん減らされていっちゃう。

そんなわけで、物語にも登場人物にもあまり感情移入できないまま、他人事を眺めているようにしか楽しめなかった。悪い話じゃないんだけどねぇ。残念。

(2002.12.14)




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★サクサク歩いてよね

 少し前までは、たとえば駅のホームや階段などで人の流れを無視して、流れていこうとする人々の障害となっていることをまったく気にもせず、明らかに周りの人々よりも遅いスピードでのろのろと歩いている邪魔なやつといえば、だいたいの場合は歩きながら本を読んでいるバカヤロウだった。

 思えばヘッドフォンからロックのシャカシャカ音を漏らしている若者に対する批判・非難はよく聞いたが、なぜ周りの迷惑も顧みず本や雑誌を読みながらのろのろ歩いているバカヤロウに対する批判・非難の声はあがらないのだろう?
 ヘッドフォンのシャカシャカは、こっちもヘッドフォンをかぶってシャカシャカさせるとか、あるいは耳栓をしてしまうとかすれば聞こえなくなる。つまり、いくらでも自分で対処・対応できる。でも、狭いホームや階段でのろのろ歩いているバカヤロウに対しては、こちらで取れる自衛策がない。バカヤロウを追い越すスペースやタイミングが見つかるまで、バカヤロウのペースにこちらがあわせるしかないのだ。
 それを考えれば、明らかにのろのろのバカヤロウのほうがシャカシャカ音よりも迷惑だと思うのだけど、なぜか「歩きながら本を読んでいるやつは迷惑だ!」という声を聞いた記憶がない。「歩きながら本なんか読んだら危ないよ」という親切な(?)ご意見をうかがうことはあるように思うけれど。

 ちなみに、本を読みながら歩いているのろのろバカヤロウの多くは男性な気がする。女性で歩きながら本を読んでいる人はあまり見たことがない。また、駅のホームや階段では読みながら歩いても、さすがに街なかで本を読みながらのろのろ歩いているバカヤロウはそうそう見かけない。
 そう考えれば、日常生活のなかでのろのろバカヤロウの迷惑をこうむる割合というのは、じつはそれほどないともいえる。

 ところが!

 最近は駅のホームや階段はもちろん、店の通路でも街なかでも、いたるところに周りの人の流れをまったく無視し、分断し、思いっきり邪魔になっているのろのろバカヤロウが山といる。若者から中年、男性・女性にかかわらず、あちらこちらで障害物と化している。

 なぜ、こんなところで突然歩みが遅くなるのだろう? どうして、こんな道の真ん中で突然立ち止まるのだろう?

 そう、彼らはみな、携帯電話を扱っているのだ。
 突然思い出したように携帯電話をかける。携帯に届いたメールを読む。なにをやっているのかわからないけど液晶画面に見入っている。
 そんなとき彼らは、いままで自分が歩いてきたペースなどすっかり忘れ、自分の周囲に同じようなペースで歩いている人がいることなどまったく気にもとめず、自分がいまいる場所がどのくらいのスペースがあり、どの程度の通行量があり、そこで立ち止まったり通常の半分以下のスピードに歩行を落とすことで自分がどれだけ邪魔になるかなど考えもせず、のろのろのバカヤロウになる。

 おまえらみんな、邪魔なんじゃっ! サクサク歩けっ。

 ただでさえ最近は街にうっとおしい子供があふれていて歩きづらいのに、そいつらが携帯電話を持ったことで一層うっとおしくなっている。そのうえ大人までがうっとおしい仲間入りをしてしまい、非常に具合が悪い。
 そうやってどんどん自分は街に出るのがいやになる。

(2000.05.28)




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★la Vita e' Bella(ライフ・イズ・ビューティフル)

 自分は目が疲れやすいもので、ここ何年も、映画館で映画を見ていない。暗闇のなかで大画面を見続けなくてはならない映画館では、だいたいの場合、途中で目と頭が痛くなり、画面やストーリーに集中できなくなってしまうからだ。それに、周りの観客の声や物音、臭いなどに、せっかく映画の世界に入り込もうとしているこちらの気分をぶち壊しにされることも多いため、とくにヒット作などは、映画館で見ても楽しめないだろうなと思ってしまう。
 でも、もし見ている途中に自分の具合が悪くなることがなく、周りの物音などに集中力を乱されることなく、落ち着いた気分で最後まで見られるなら、やはり映画は映画館で見たいものだ。

 なかなか映画館に足を運ぼうという気は起きないが、やはり気になる映画はある。そういったものについては、原作本を読むか、オリジナル・ストーリーの場合はノベライズ(小説化)を期待してしまう。けっきょく『シックス・センス』も『ハムナプトラ』も『セブン』も、文庫で読んだ。
 そして、ここ数か月の間、気になっていたのが、昨年(1999年)の話題作『ライフ・イズ・ビューティフル(原題「la Vita e' Bella」)』だ。

 この映画は原作があるわけではない。そのためノベライズを探していたのだが、文庫で出たのは映画のシナリオ本。つまり、簡単な情景の指定と出演者のセリフしか書いていないもの。
 映像と音があれば、俳優の表現力によってセリフ以上のことが伝わり、それがストーリーに大きな意味と影響を与えることができる。でも、紙面に書かれた文字だけで、そのセリフのもつ意味(そのセリフを発する登場人物の心の揺れなど)がどれほど伝わるか、非常に不安だ。ノベライズであれば、そういった心象風景などもきちんと書き込まれるのだけれど。
 そういった理由もあり、文庫のシナリオ本を読むのをためらっていたのだが、ノベライズはいっこうに出そうもないので、あきらめてシナリオ本で読むことにした。

 結果として、この本は正解だったと思う。
 セリフの掛け合いのリズムのよさや展開のうまさが、シナリオにもかかわらず、いわゆる読書としての楽しみを与えてくれる。登場人物の心象風景などが書き込まれていないことが逆に、セリフとセリフの隙間を読み手に想像させ、その人物のいる情景を浮かばせ、自分の世界の一部としての『ライフ・イズ・ビューティフル』をつくりだせる。

 この話の細かい内容については、ここでは書かない。すでに映画を見た人、文庫を読んだ人もいるだろうし、これから見たり読んだりするのを楽しみにしている人もいるだろうから。
 ただ、自分は最初、これはコメディだと思っていたのだけど、いや、コメディには違いないのだけど、最近の「笑いさえとれればなんでもアリ」で場当たり的なコメディとは違う、非常によく考えられた作品だといえる。チャップリンやキートンの演ずるコメディ(といっても、自分はよく知らないのだが)の流れを汲むものではないか。

 表面的には、笑いどころがたくさんある。でも、その根底に流れるテーマはとても重い。しかし、その重さを嘆くでもなく、ことさら強調するでもなく、あるいはあきらめて受け入れるわけでも、強く反発するのでもない。
 不安な影はつねに背後にあり、見切れそうな視界のすみに映っているのだけど、いちばん目立つところでは前向きで、意欲的で、明るく、楽しく、元気なイメージが幅を利かせている。

 イタリアのナポリに住む人は、みな陽気だといわれるが、それはヨーロッパが戦乱の時代に、ナポリは地理的にもっとも戦渦を受けやすく、日ごとに支配者が変わったからだという記述を読んだことがある。
 今日と明日とで支配者が変わる。今日はナポリを守っていた軍隊が、明日はナポリに攻撃を仕掛けてくる。誰を信じていいのかわからず、明日を夢見ていいのかもわからないような国同士の勝手な戦いのなかでナポリの住民は、自分たちでその日そのときの人生を精一杯楽しむ術を身につけていったのだという。
 そして『ライフ・イズ・ビューティフル』には、このナポリの人々にまつわる話に似た明るさ、楽しさと不安が、ストーリーの全体に感じられるように思うのだ。

 正直な話、最初は楽しい気持ちで読んでいたが、最後には泣きそうになってしまった。でも、それは決して、単純な「悲しい」という気持ちからだけではない。たとえばスティーブン・キングの『シャイニング』や『ペット・セメタリー』などにも通じる、「そうせねばならない」愛情と悲しみが、静かに心に染み込んでくるのだ。
 暖かく大きな愛情が入り混じったこの「悲しさ」は、即物的で拝金主義で単細胞な感情をあたりまえのように発している現代日本の小僧・小娘たちにも感じとれるのだろうか。

 英語では「Life is Beautiful」と訳され、日本ではカタカナで「ライフ・イズ・ビューティフル」とされたが、イタリア語の原題は「la Vita e' Bella」という。
 「la Vita」は「Life(人生)」、「e'」は英語のbe動詞にあたる「essere」の活用形、そして「Bellla」は「Beautiful(美しい)」にあたるので、英語題は原題をそのまま英語にしたものといえる。つまり、「人生は美しい」というタイトルなわけだ。

 しかしイタリア語の「bella」(原型は「bello」。主語の「Vita」が女性名詞なため、女性形になっている)には「美しい」だけでなく、「素晴らしい」という意味もある。英語のタイトルからは「人生は美しい」としか読めないが、自分は、この作品は「人生は素晴らしい」と訳したほうがピッタリくるように思う。

 ドイツ兵に連行される途中の主人公・グイドが、息子・ジョズエが隠れているそばを通るときにする「あひる歩き」。アメリカ軍の戦車に乗って「1000点を取ったよ。僕らは勝ったんだ。腹がよじれるよ」とはしゃぐジョズエを抱きしめる母・ドーラ。
 それでもやはり「人生は素晴らしい」のだろうか。グイドの人生は素晴らしかったのだろうか。ドーラの人生は素晴らしいのだろうか。そして、ジョズエの人生は素晴らしくなるのだろうか。

 人生は素晴らしい。素晴らしくあってほしい。でも、実際には悲しいこと、つらいこともある。しかし、うれしいことも楽しいことも悲しいこともつらいことも、すべてを含めて「人生は素晴らしい」とジョズエに伝えたかったグイド。
 自分は、それを信じられるだろうか。そして、誰かに自信を持って伝えられるだろうか。

(2000.04.02)




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