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★映画『16歳の合衆国 (THE UNITED STATES OF LELAND)』 (2004.08.22)
★映画『箪笥(たんす) (A TALE OF TWO SISTERS)』 (2004.08.09)
★映画『デイ・アフター・トゥモロー (THE DAY AFTER TOMORROW)』 (2004.07.27)
★芝居『渚家にて』離風霊船 (2004.07.20)
★映画『4人の食卓 (THE UNINVITED)』 (2004.07.17)
★映画『21グラム (21 GRAMS)』 (2004.07.10)
★芝居『美しきものの伝説』A・M・D企画 (2004.07.06)
★映画『ドーン・オブ・ザ・デッド (DAWN OF THE DEAD)』 (2004.07.04)
★映画『ロスト・イン・トランスレーション (LOST IN TRANSLATION)』 (2004.05.29)
★映画『真珠の耳飾りの少女 (GIRL WITH A PEARL EARRING)』 (2004.05.21)







★映画『16歳の合衆国』

映画『16歳の合衆国』を観てきました。

『THE UNITED STATES OF LELAND』
監督:マシュー・ライアン・ホーグ(Matthew Ryan Hoge)
出演:ドン・チードル(Don Cheadle)、ライアン・ゴズリング(Ryan Gosling)、クリス・クライン(Chris Klein)
2003年・アメリカ映画
104分

なんか、救いのない話だ。これがアメリカ人(の一部)が最近持っている気持ちなのかなぁ。

主人公のリーランドは、ものごとのネガティブな面にばかり視線が行ってしまう16歳の少年。現状がネガティブではなくても、この先の未来にはネガティブな展開しかないと考えてしまうような、ある意味では繊細な、でもじつは臆病な性格。そのリーランドが、恋人(ジャンキー)の弟を殺してしまう話。その弟には知的障害があるため、リーランドは「彼の未来にはいいことなんかなにも待っていない」と考え、未来の不幸を防ぐために、いま殺しちゃう。

この事件をきっかけに、恋人の家庭(みんな問題ありまくり)が崩壊しかけ、リーランドの家庭はとっくに崩壊してて、教師と恋人の関係も崩壊しかけ、なんだかんだとあるわけです。

思春期にリーランドみたいな考え方に傾くことっては、べつに珍しくはないわな。ただ、そこから「他人の不幸を断ち切るために、不幸のなかにいるその他人を殺す」という行動には、普通は出ない。いくらリーランドがその子の姉とつきあっているからといっても、殺人の動機としてはあまりに弱いと思うのだなぁ。やはり本当の動機は、「彼のため」ではなく、もちろん「恋人のため」でもなく、「自分のため」なはず。未来には不幸な世界しか待っていない恋人の弟を殺すことで、未来には不幸しか待っていないように思えてしかたがない自分を終わりにしたかったのかなぁ。

いずれにしろ、殺人という行動を起こすかどうかはべつにして、リーランドの考えていること、感じていることは、まったく理解不能なことではない。そういうこともあるよね、こういう子もいるよねって思いながら観ていけば、それなりにこの映画の持つ世界の中に自分を置くことはできる。

ワケわからんというか、不要だよなと思ったのは、リーランドの父親。家庭を顧みない売れっ子作家。作家としては一流だけど家庭人として、父親としては失格なおじさん。こういう父親がいるからリーランドのような子が育つっていうことをいいたかったのかもしれないが、それならそれでもっと父と息子のこれまでのかかわりとかをきちんと描かんと。ただおっさんが出てきてモノローグしてるだけじゃいかんでしょ。それに、こういう子供って、親がどうかとはあまり関係なく、こういう考え方を持つものだと思う。いっそのこと、リーランドの家庭環境なんかはまったく画面に出さないほうが、かえってリーランドという少年の心の中に入っていきやすかったなと思うのだわ。子の父親の役はケヴィン・スペイシーがやっているんだけど、彼は制作も兼ねてるのね。たんに自分の制作した映画に出たかっただけの役柄って感じで、なんか感じ悪い。

最終的にリーランドは、世の中はネガティブなことばかりではないということを感じ、世の中に少し心を開こうと思った矢先に、ジャンキー恋人の姉のボーイフレンド(リーランドのせいで家庭が崩壊した恋人の仇をうちに来た、と見せかけて、自分と恋人の関係が悪化したことを彼のせいにしたくて来た)に刺し殺されるんだけど、最後、リーランドは笑ってるんだよね。少しポジティブな気分になってきたところで「終わり」が来たから、彼は自分の未来の「ネガティブ」な部分を見ずにすんだ。その点でいえばある意味ハッピーエンド。彼の教師は恋人とヨリを戻し、リーランドを殺した兄ちゃんは「恋人の家庭のために」という大儀のもとリーランドを殺したいという自分の欲望を果たし、おそらくジャンキー姉ちゃんは結局ジャンキーから抜けられないだろうし、別れを望んでいたジャンキーの姉は望みどおり彼と別れて遠くの大学へ行く。そして「哀しみにあふれている世界」はなにも変わらないまま、ずっと続くんでしょう。

という雰囲気を感じて、そういう世界の中を漂って、ふ〜んって思って終わっちゃう映画でした、自分にとっては。

(2004.08.22)




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★映画『箪笥(たんす)』

映画『箪笥(たんす)』を観てきた

『A TALE OF TWO SISTERS』
監督:キム・ジウン
出演:イム・スジョン、ムン・グニョン、ヨム・ジョンア、キム・ガブス
2003年・韓国映画
115分

先日の『4人の食卓』に続き、つい韓国ホラーを観てしまった。先に行ってしまうと、自分にとっては『4人の食卓』のほうがおもしろかったですわ。『4人の食卓』は幼年期のトラウマ系神経衰弱サイコ・ホラーといった感じでしたが、『箪笥(たんす)』のほうは少女期のトラウマ系精神障害多重人格ホラーでした。

いきなりネタばれしちゃうと、スクリーンに映し出されているシーンの大半(90%くらい)は姉の妄想・幻想です。妹も、継母も、あの家にはいません。すべて姉が自分で演じ、自分で愛し、自分で憎んでいます。そこまで精神が崩壊する事件が、あの家であったからなんですけど、そして、それに大きくかかわっているのが箪笥なので、タイトルも『箪笥』なのでしょうけど、この危うさって、いかにも少女期って感じです。それが自分の肌感覚になじむかなじまないか、なんとなくでも受け入れられるか受け入れられないかで、この映画を楽しめるか楽しめないかが決まってきそうです。

実の母は箪笥のなかで首をつって自殺していますが、おそらくこの母も精神的にもろい人だったんだろうな。その気質が姉に遺伝しているように思います。妹のほうはそういう線の細さがなく、どちらかというと天真爛漫系の、太陽のような子だったのでしょう。だから母も、どちらかというと妹のほうが好きだったのではないでしょうか。なので、妹の部屋で死んだのではないかと思うわけです。

姉は、のちに継母になる女性と父親が愛人関係にあったと思っていて、そのために実母が自殺したと考えているようですが、そのあたりの真偽はわかりません。母は精神的な問題で突発的に自殺を図ったとも考えられます。

おそらく、この姉は、家族のなかでいちばん浮いていたはずです。この姉には、父に対する近親相姦的な愛憎を感じます。もしかして母を精神的に追い込んだのも、この姉なのかもしれません。じつは妹のことも、この姉は本当は好きじゃなかったのではないでしょうか。もちろん、のちに継母となる女性も、姉は好きではなかった。この姉にとって、父のまわりにいる女性はすべて憎むべき対象なのではなかったか。そう思うわけです。その結果、家族中から「困った娘」と見られ、浮いていたんじゃないかなぁと。

場合によっては、妹が箪笥の下で死に掛けていたことすら、姉は知っていたのではないか、知っていて、知らぬふりをしたのではないかとも思います。

映画では、のちの継母が1度、妹の部屋を確認し、事態に気づいたけれどそのまま放置して戻りかけるのだけど、やはり思い直して、おそらく救出に向かおうと仕掛けたときに、姉が部屋から出てきて、そのタイミングを失わせます。結果、のちの継母は救出に向かうことなく、妹は死んでしまうわけですが、もし姉が、のちの継母が1度妹の部屋を確認しに行ったことにきづいていたとしたら……。

その前のシーンで、のちの継母は他の親類らしき人たちと居間にいます。そして、なにか大きな音がしたから、ちょっと見てくるとその場を離れます。ということは、その場にいた他の人たちは、のちの継母が確認しにいっているはずなのに妹の事故を見逃したことの証人になるわけです。もしくは、事故に気づきながら見殺しにした、と。そんな女性、もうこの家には置いておけませんよね。これにより姉は、実母と妹とのちの継母という、乳のまわりにいるじゃまな女性たちすべてを排除できると考えたのではとも思えるんです。

さらにいえば、もしかして実母は自殺ではなく、姉が殺したのかもしれない。だから、妄想のなかで実母の霊が襲うのは、もともとの自分である姉なのかも。継母が飼っている鳥が鳴いてうるさいので、姉が「殺しちゃおうか」というシーンがありました。これって、邪魔なものは殺してしまえばいいという考え方をこの姉は持っているということですよね。そして実際、鳥は首をへし折られて殺されてしまいます。つまり、実行したわけです。これって、過去に自分が行なった殺人のフラッシュバックなのかも。

いずれにしろ、この姉は、父のまわりにいるすべての女性を憎んでいたと思います。父の正式な妻である実母に対する憎しみは、映画のなかからはうかがえませんでしたが、あれが自殺ではなく殺人だとしたら、そこに描かれていたのかも。妹へ対する憎しみは、自分が継母の人格になることで表現されています。妄想継母になり、袋詰めにした妄想妹を殴り殺すわけですから。継母に対する憎しみは、もとの自分の人格であらわにしています。そして、父に対するセクシュアルな愛情と欲望を、自分が妄想継母になることで満たそうとしている。

これらから、この映画は、映像はとても美しいのだけど、じつはエログロにまみれた怪奇少女人形のような作品だ(どんな作品だ?)と、自分には思えるのです。この点で、純粋な「哀しみ」が根底に流れていた『4人の食卓』のほうが、自分には共感も納得もしやすかったのですよ。

ひとつわからないのが、夕食に招かれる親戚(おじ・おば)です。彼らは実在だったのだろうか? それとも、彼らも姉の妄想? おばは「流しの下になにかいた」といったことをいいますが、そもそもあの家でおきる怪奇現象および霊らしきものの出現はすべて姉の妄想ですから、姉意外に見えるはずはないんです。しかし、おばは「いた」といっている。妄想が実態として現われてしまっている。

そもそもあのふたりを呼んだのは誰でしたっけ? 父が電話で「呼ぼうと思っている」といっていたような気もするけれど、妄想継母が「食事に呼んだ」と宣言し姉人格が「いやだ」と応酬しているシーンもありました。とすると、このおじ・おばも妄想の一部と考えたほうが理解がしやすいな。ひきつけを起こしたおばが薬を飲まされるシーンも、妄想継母および姉本人が薬を服用しているシーンとつながるし。

ちなみに、このふたりがクルマで家を訪れる途中の道の端に、テントのようなものがあったような気がするんですが、あれはなんだろう? なんか、気になる。

しかし、幽霊の描き方はもっとなんとかならなかったんだろうか。あまりにも貞子なんですけど。いいかげん『リング』の呪縛から抜けてほしいですわ。

(2004.08.09)




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★映画『デイ・アフター・トゥモロー』

映画『デイ・アフター・トゥモロー』を観てきました。

『THE DAY AFTER TOMORROW』
監督:ローランド・エメリッヒ(Roland Emmerich)
出演:デニス・クエイド(Dennis Quaid)、ジェイク・ギレンホール(Jake Gyllenhaal)、イアン・ホルム(Ian Holm)
2004年・アメリカ映画
124分

CGはなかなかよかったです。「いかにもCG」って感じではなくて。ストーリーはシンプルですね。人間由来の自然災害(言葉として変だな)で北半球が凍結し、北半球の人類はほぼ滅亡。それを予測していた(到来時期は思いっきり読み間違えてたけど)気象学者が、凍結したニューヨークに残っている息子を助けに行く。そのくらいの話です。たいして深みはありません。でも、見た目の部分の大仰さで楽しめたから、それでよしとしましょう。

主人公の親子以外に、登場人物、ちょっと多すぎですね。それらの人々になんとなくバックストーリーを持たせたのに、それを少しも掘り下げることなく映画は進んでいくので、それらのストーリーが何の意味を持たずに凍結していく。なので、彼らの「生きた姿」がぜんぜん感じられない。主人公親子の妻・母親である女医と病気の子供とか、スコットランドあたり(だっけ?)で海流の温度をずっと計測している学者さんたちとか、そのほかにも「ドラマ」を持ってそうなほのめかしのある人たちがいっぱい出てくるんだけど、みんなほったらかしです。

そもそも主人公親子自体、人としてのドラマが薄いですね。父と子の関係も、それぞれがどういったキャラクターを持った人物であるかについても、説明的なシーンがちょろっと入るだけで、実感として伝わってこない。人間ドラマの部分を観て楽しむことはできない映画だと思います。

地球に氷河期が訪れ、北半球が凍結するという現象が起こりうる理由については、それなりに映画のなかで説明されていたので、学問的なことはわからないけど、そういうこともあるのかもなということで、映画の設定のなかに入っていく助けになりました。でも、異常気象が始まるときには、なぜ始まるのか、この先どれほど被害が大きくなっていくのかについて調査し、騒ぎ、絶望するシーンとかがいっぱいあったのに、あの終わり方はなに? 異常気象の終結については、なんだか気づいたら終わってたみたいな感じで、あまりにあっけない。どうして終わったのか、そろそろ終了ということは観測から予想できなかったのか、NASAや気象学会はなにやってたんだよという印象ばかりが残ってしまいます。

主人公息子が思いを寄せる女性の敗血症にしろ、船のなかでのオオカミとの戦いにしろ、あまりにあっさりしすぎ。主人公はもっとすごく大変な困難に向かい合わないと。ていうかあんたたち、何日も建物内に非難しているわりには、みんな身奇麗すぎ。あの状態でみなさん、毎朝ひげをそってらっしゃったんでしょうか。それと、主人公父と一緒にニューヨークをめざした仲間たち。なんだか全然意味がなかったぞ。主人公父ももっともっと大変な困難に立ち向かわないと。

などなど、突っ込みどころというか、突っ込まずに流して観てしまったほうがいいところは満載です。でも、それはそれとして、目の前に映し出されていることをそのままに観て「寒そう」とか「すげぇ」とかいって楽しんじゃえば、それでいいんじゃないんでしょうか。

ちなみに、主人公息子と一緒に図書館に非難していて最後まで助かったおじさんは、図書館の館長なのかしら? ずっとグーテンベルクの初版本聖書を抱えていた人。暖を取るために図書館内の本をどんどんと暖炉にくべる主人公たちからその本を守るために抱えていたわけですが、最後に救出されてヘリコプターに乗るときも抱えてましたね。映画内ではこのおじさん、「私は神を信じてなどいない」とかいってたけど、ここってすごく宗教くさいシーンだと感じました。

グーテンベルクの初版本聖書。世界で最初、人類初の「印刷された神の言葉」てことですよね。これってモーセの十戒に見立ててるのかなぁ。神の十戒が刻まれた石版って、おそらく人類史上初めて「文字」というかたちで神の言葉が人々の目に触れたものなんですよね、きっと? はじめての印刷物と、はじめての石版。なんとなく、リンクしません? 十戒を守っているかぎり、ヤハウェはイスラエルの民を見捨てない、必ず救う。聖書を守っているかぎり、キリスト教信者は父と子と聖霊により救われる?

ほかにも聖書の投影っぽいシーン、シチュエーションがいくつかあります。

たとえば、主人公父がもうすぐ主人公息子の下にたどりつくという少し手前、主人公父は、凍死して雪に埋もれた真っ白な死体をいくつも見つけます。彼らは、もとは主人公息子と一緒に図書館に避難していた人たち。図書館の外を多くの人たちが避難していくのを見て、正確な情報も持たないまま、自分たちも街を出ようと決めた人たち。主人公息子が止めたのにもかかわらず、気象学者の父が「嵐はますますひどくなる、屋内でじっとしていろ」といった言葉を伝えたのにもかかわらず、自分の考えで出て行った人たち。彼らがみんな、真っ白になって死んでいるんです。まるで「塩」のように真っ白になって。

滅ぼされた街と、塩の塊にされた街の住人。これって、ソドムとゴモラ? 神の言葉を忘れ、私利私欲、悪徳、男色に満ちた街をニューヨークに投影したんだろうか。

気象学者である「父」は、これからニューヨークになにが起きるかを知っていた。それを「子」に伝えた。「子」は「父」の言葉を「民」に伝えたけれど、その言葉を信じたのは一部の者だけ。「子」の言葉に背いた者たちは死んだ。

すべてを知る「父」なる神は、神の言葉を伝えるために「子」であるイエスを地上に降ろした。「子」であるイエスは「民」を救うために「父」である神の言葉を説いた。しかし「民」の多くは「子」イエスを信じず、「父」である神の言葉に背き、滅びへの道を選んだ。

めちゃめちゃ自分勝手な深読み・邪推ですが、なんとなく関連性を感じてしまいます。あと、よく覚えてないんですが、スコットランド沖で海流の温度が極端に下がったっていうところ、下がった温度は13度ではなかったでしたっけ? 13。不吉な数字。それを観測していた学者のチームは3人で、主人公父のチームも3人。3は聖三位一体につながるのでラッキーナンバーですね。

なんてことを観たあとに考えるくらいには楽しい映画でした。

(2004.07.27)




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★芝居『渚家にて』離風霊船

離風霊船『渚家にて』

離風霊船はやっぱりうまかったです。役者さんがかまないもん(そんなところで評価かよ!)。ここ2年ほど公演がないのだけど、以前によく観にいってたTokyo Fとか一夜城とかは、役者さんが大切なシーンでカミカミで、はらはらしながら観るというある種の緊張感を楽しむ舞台でしたけど(そうか?)、離風霊船にはそういうことがないですね。役者さんたちに余裕があるというか、だからきちんと間をはかれるっていうか。やっぱ、上手なんだよな、役者さんも脚本も。

でも、今回の舞台、話の内容はどうなのかなぁ。ていうか、途中で話自体を変えたでしょ? だって、公演チラシに書かれている『渚家にて』の紹介文と、実際の舞台の内容、ぜんぜん違うもん。公演チラシでは、東京郊外のある一家庭で、普段はたがいに干渉しないようにしている家族4人が、ある日たまたま夕食時に勢ぞろいしてしまい……てなふうになってるのに、舞台では東京なんか出てこない。ていうか、日本じゃないどこかの国での話になってるし、家族じゃないし、8人だし(笑)。イラクでの人質事件のニュースを見て急遽、話自体を全部つくりなおしたのがありあり。なので、話の内容と公演タイトルにまったく関連性がなくなってしまってる。そういうのは、どうなのかなぁ。

急ごしらえでつくった(と決め付けてますが)にしては、ストーリーに破綻がなく、うまくまとまってたと思うけど、その分、深みとか奥行きもなかったな。ステレオタイプで平凡。テーマの重さのわりに、登場人物たちの内面への踏み込みとかが足りない。そのへんが残念だわ。なまじっか「上手」にやれてしまう劇団だから、まとめられちゃうのがかえってツライ。もっと時間をかけて書かれた脚本を、じっくりと練って揉んで深みを引き出した状態での芝居が観たかったですわ。

(2004.07.20)




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★映画『4人の食卓』

映画『4人の食卓』を観てきました。

『THE UNINVITED』
監督:イ・スヨン
出演:チョン・ジヒョン、パク・シニャン
2003年・韓国映画
126分

『猟奇的な彼女』主演女優による韓国ホラー映画みたいに紹介されていたような気がしますが、これはホラーじゃないですね。トラウマ系サイコ・スリラー?

ところどころ、エグイです。高層マンションの上階から幼児を落とすシーンとか、坂道の途中に座っている子供がバックしてきたダンプカーに踏み潰されるシーン、その踏み潰された子供がマンホールのなかに捨てられてるシーンとか、飛び降り自殺して落下していく女性と目が合ってしまうシーンなど、見てて厳しいです。そういったことが主人公ふたりのトラウマになり、そのトラウマが心に引き起こす夢とも幻とも現実とも判然としないヴィジョンに苦悩していくんですね。

電車のなかで母親に毒殺されたふたりの子供がなぜ“彼”の「食卓」に現われるのか、その理由はよくわかりません。ただ、「ふたりの子供」が目の前で死んだ、「ふたりの子供」を助けられなかったということが、“彼”にとってはヴィジョンをよみがえらせるトリガーにはなっていますね。電車のなかで死んだ、ふたりの子供。幼少期に“彼”の目の前で死んだ、ダンプに踏み潰された子供と家事で焼け死んだ妹。

たまたま“彼”の食卓で「ふたりの子供」を見てしまった“彼女”にとっても、霊媒体質というご都合主義的な能力を与えられているのがなんだかなぁという部分はありますが、子供がふたりというのは意味がありそうです。映画のなかでは、マンションのベランダから落とされて殺される子供は、“彼女”の子供ひとりしか映りませんでしたが、投げ落とした“彼女の友人”は育児ノイローゼで、「子供を私に近づけないで」といっていました。それに対して“彼女”は「あなたの子供じゃない」と答えているシーンがありました。ということは、きっと、実際に“彼女”の目の前で死んだのは、“彼女”の子供と友人の子供のふたり。ふたりとも、マンションの下のコンクリートに打ち付けられて死んだのじゃないでしょうか。

つまり、“彼”の食卓で「死んだふたりの子供」を見た“彼”と“彼女”には、その時点でどちらにも「目の前で死んだ子供、助けられなかった子供」が、ふたりいたわけです。“彼”にとっては、忘れていたその記憶が、目の前で実際に見たふたりの子供の死体というかたちで現われたのかな。では、“彼女”も同じ「形」で見たのはなぜ? やはり霊媒体質だからなのでしょうか。このへんが、釈然としないといえば、釈然としない。

あと、“彼”の婚約者の役割、立場というのも、ちょっとよくつかめなかった。けっきょく婚約者は、“彼”の元には返ってこないのでしょう。最後のほうで“彼”が、“彼女”が選んだガラスの食卓を(この食卓に死んだふたりの子供がいる)粉々に壊し、“彼女”に「戻ってきてくれ」と電話をするシーンがあります。しかしいちばん最後のシーンでは、食卓はそのままで、“彼”のほかに「死んだふたりの子供」と「死んだ“彼女”」が食卓を囲んでいます。自分が思うに、おそらくこちらが真実。“彼女”を信じられなかった(信じたくないと思った)せいで、結果として“彼女”を死に追いやってしまった“彼”。またひとり、“彼”の目の前で死んだ、助けられなかった人が増え、その人が“彼”の食卓に着くのです。

あれ、もしかして“彼”も死んでしまったのかな。“彼”が“彼女”を信じなかったせいで“彼女”は死んでしまった。“彼”の婚約者も“彼”を信じようとせず、話を聞こうともしなかった。ここに関連性を求めるなら、婚約者に信じられなかった“彼”も死への道を進むのかも。ということは、食卓は本当に壊され、最後のシーンがヴィジョン? う〜ん、よくわからなくなってきたぞ。

いずれにしろ、怖い映画というよりは、悲しい話だと思います。横溝正史や江戸川乱歩が好んで書きそうな、あるいは『人間の証明』などにも通じそうな、悲しみを感じます。貧しい時代の貧しい生活のなかで避けることができずにおきてしまった忌まわしい出来事が深く心の奥底に暗い影を落とし、貧しさから抜け出した現在にも一点の染みとなって悪い影響を与えることから、あらたな忌まわしい出来事が起きる……。

観終わったあとに、いろいろなことを考えさせる、思わせる映画でした。もう1回観ようかな。それとも小説のほうを読んでみようか。

(2004.07.17)




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★映画『21グラム』

映画『21グラム』を観てきました。

『21 GRAMS』
監督:アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ(Alejandro Gonzalez Inarritu)
出演:ショーン・ペン(Sean Penn)、ナオミ・ワッツ(Naomi Watts)、ベニチオ・デル・トロ(Benicio Del Toro)
2003年・アメリカ映画
124分

『アイ・アム・サム』の予告を観たときも、『ミスティック・リバー』を観たときも、もしかしてそうかなぁと思ったんだけど、この映画を観ていっそう確信しました。

自分はショーン・ペンの顔が嫌いだ。

映画は全編にやり切れない悲しさや苦しさ、切なさがただよっていて、観ているこちらまだ気分が沈んできます。でも、じつはこれって「雰囲気一発」映画な気がします。

たしかにテーマは重いし、ある種の哲学的命題を感じさせるようにも思えるのですが、それもみんな、時間軸が交錯し、混乱した時間軸のなかで主要人物3人の物語がぶつぎれでカットインしてくることによる効果の部分が大きいような。時間の流れに沿って事件を見せ、それぞれの人物の物語も整理して映し出したなら、意外と平凡な映画になったように思います。

とはいえ、この「時間」と「想い」の交錯と混乱が、事件の当事者、関係者たちの不安定で混乱した心情を表わしてるともいえ、そういう意味では「うまい構成だな」と感じます。

しかし、ベニチオ・デル・トロのダメ男演技はしびれました。彼がもっとも「21グラム」の重さに押し潰されていましたね。あと、音楽がけっこうよかったな。

それなりに見ごたえのある映画で、なかなか楽しめました。

(2004.07.10)




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★芝居『美しきものの伝説』A・M・D企画

舞台作品としては有名な芝居だそうです。大正デモクラシーの時代を舞台に、思想や芸術のために魂を、命を、全人生を傾けた若者たち(=美しき者たち)を描く青春群像劇。初演が1968年で、有名な脚本なので、これまでにあまたの劇団が舞台にかけているそうですが、自分が観てきたのはA・M・D企画というセミ・プロ(アマチュア?)演劇プロデュース集団のものです。知り合いの役者さんが出てるんで。場所は赤坂のシアターVアカサカでした。

えっとですね、自分は社会科系がすごく弱いんです。地理とか歴史とかって、なんだかぜんぜんわからない。学生時代にちっとも興味を持てなくて勉強しなかったものだから、ぜんぜん知識がないのですわ。大人になってからも勉強してないし。で、このお芝居なんですが、おそらく明治から大正にかけてくらいの日本史、社会情勢や政治情勢等の知識がないと、かなり楽しむのが難しいと思います。実際、自分は観てて、よくわからんかった。ボリシェビキってなんだったっけ? むか〜しに学校の教科書で見たことがある言葉な気がするんだけど。

若者による社会主義活動だとか、それに対する国の弾圧だとか、ロシア革命の影響だとか、なんだかどれもこれも「遠い世界のお話」で、それに対して自分がどういうふうに感情移入したり、反応したりすればいいのか、わからないんですよ。登場人物はみんな、その時代になにがしかの足跡を残した実在の人物なのだそうですけど、そんなこといわれても、みんな知らない人たちばっかりだもん。

それにね、いっちゃ悪いんだけど、やっぱり演技がねぇ、あまり上手ではないのよ。というか、みなさん、カツゼツが悪いですわ。とくに主役の大杉栄をやった人(劇団しゃばだば座の座長だぜ)、ほとんどなにいってるかわからん。まずいだろ、それじゃ。ちなみに、知り合いの役者さんもあまりカツゼツがよいほうではないのですが、声がいいのだわ、彼は。それに今回はあんまりセリフも多くなかったし、よかったよかった。

それはともかく、芸術座の主宰者をやった役者さん以外は、みなさん微妙なお芝居&台詞回しで、困っちゃったなぁという感じです。あ、芸術座の音楽担当(作曲家)さんをやった役者さんは、なかなかよかったな。あと、女給&女優の役で女優さんが3人出てたのですが、そのなかの一人がめっちゃかわいかった。飯島直子さんの若かったころを思い出させるような笑顔が素敵で、他の出演女優さんたちとはちょっと違ったたたずまいを持ってる。と思って調べたら、この人、レースクイーンで、グラビアアイドルで、写真集3冊にDVDも出てる人だったのね。なるほど。この娘を含め、女優さんたちはみんな、けっこうがんばってたな。もうひとりの主役である野枝さんを演じた女優さんも上手だったし。こういった小さな劇団さんは比較的どこも女優さんのほうが男優さんよりもうまい傾向がありますね。

途中で10分の休憩を挟んで、上映時間が3時間弱と長いのだけど、脚本自体は悪くないと思うんですよ。何の話だかわけわからんってところはあるけれど、それは観る側の知識・情報の不足による「入り込めなさ」が原因で、ストーリー自体は破綻がないし、密度も濃い。いかにも芸術が熱かったころの芝居らしい芝居なんでしょう。でも、その芝居のコアとなってる社会主義や無政府主義への渇望、歌舞伎とは違う新しい大衆芸術への欲求といった精神的な背景がね、いまの時代にはぜんぜんぴんとこないと思うんです。政府による言論統制とかもね。観客がみんな、そういった時代や状況についての知識や実感がある人なら、脚本だけでもなんとか舞台につなぎとめていけるかもしれないけど、そうでない自分にとっては、やはり「演技」「芝居」の部分、つまり動きや台詞回し、そして「間」のうまさといった部分でひきつけてもらわないと、コアとなる話=脚本だけでは、3時間弱はちょっときついです。

今回の出演者さんたちには申し訳ないけど、この舞台を誰かもっと演技力のある役者さんたちの配役で観ていたら、わからないなりにも、もう少し時代の空気やそこに生きる人たちの魂のようなものが伝わってきたんじゃないかなぁと、そんなふうに思うのでした。

(2004.07.06)




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★映画『ドーン・オブ・ザ・デッド』

観てきましたよ、『ドーン・オブ・ザ・デッド』。

『DAWN OF THE DEAD』
監督:ザック・スナイダー(Zack Snyder)
出演:サラ・ポーリー(Sarah Polley)、ヴィング・レイムス(Ving Rhames)、ジェイク・ウェバー(Jake Weber)
2004年・アメリカ映画
97分

事前情報で、ゾンビが走って追いかけてくるのがおかしいということを聞いてたんですが、ほんと、おかしい。だって、ゾンビですよ。死んでるんですよ。なのに、走って追いかけてくるの。それも、全速力で。もう、爆笑しそうでしたよ。

特殊メイクとかはね、よくできてたんじゃないかと思います。ショットガンで頭が半分吹っ飛ぶところとか。しかし、ゾンビという別の物体(生き物じゃないですよね? 死んでるんだから。でも、頭を打たれると死ぬ?のはなぜ???)とはいえ、人のかたちをしたものを、ゲームのように屋上から狙撃して楽しんでるシーンは、あまりいい気分がしませんね。むかしむかし、ヨーロッパの貴族が森に奴隷を放ち、馬で追って矢で射ったフォックス・ハンティング(狐狩り)ゲームとか思い出しちゃいます。ほんのちょっとのことで「こいつは人間じゃない、狐だ」って思って、人型のものを楽しんで撃ち殺せる。人間ってやっぱり罪深いのかしらん。だからゾンビになっちゃうのね。

ちなみにゾンビってのは、もともとはブードゥー教(だったよな)の処刑方法だそうです。ただ殺すだけでは飽き足らない極悪人を、ゾンビパウダーという特殊な調合役を使って1回仮死状態にし、魂を奪ったのちに生き返らせ、以後は魂のない生ける屍の奴隷としてずっとこき使うっていうものなんだとか。しかしそれがヨーロッパなどのキリスト教国に渡ると、最後の審判の日に、すべての死者が生き返り、善き人と悪しき人を神が分かち、善き人は天(神の国)へ召され、悪しき人は苦しみの地に残される(てなことでしたよね?)っていう聖書の話へとリンクされちゃうんだろうな、きっと。ゾンビはみんな、けっきょく悪しき人?

そういえば、映画のなかに出てくる犬。チップスという名前でしたっけ? あの犬、ぜったいゾンビを呼んでるよね。あいつが吠えるとゾンビがわらわらとやってくる。犬(Dog)は神(God)のスペルをさかさまにしたものなので、悪魔の使いといった意味合いを持たせられることがあるらしい。今回のチップスは、きっとそういう役割なんだろう。

ジョージ・A・ロメロのオリジナルを観たのはもうずいぶんむかしなので、どんなストーリーだったか覚えてないんだけど、このリメイクは、大枠で踏襲されてるんだろうか? なぜゾンビが大量発生したかという原因もわからず、この騒動がどう収束するのか(もしくはしないのか)といったことも描かれず、なんだかわけもわからないままに混沌として終わるっていうのは、気分はよくないけど、このいや〜な感じがいいね。救いがない映画って、そんなに嫌いじゃないんです。

しかし、やっぱゾンビはゆらゆらと追っかけてくるほうが怖いぞ。ゆらゆらで足が遅いのに、逃げ切れないってほうが。追っかけてくるゾンビよりも、ゾンビが打たれて頭が吹っ飛ぶシーンよりも、逃げるじいちゃんがクルマの中で誤ってチェーンソーで一緒に逃げる姉ちゃんを切り殺してしまうシーンのほうが、なんか怖かった。チェーンソー、痛そうだった。『テキサス・チェーンソー』よりも、あの姉ちゃんが切られるシーンのほうがきつかったわ。

(2004.07.04)




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★映画『ロスト・イン・トランスレーション』

『LOST IN TRANSLATION』

監督:ソフィア・コッポラ(Sofia Coppola)
出演:スカーレット・ヨハンソン(Scarlett Johansson)、ビル・マーレー
2003年・アメリカ映画
102分


先週の『真珠の耳飾りの少女』に続き、スカーレット・ヨハンソン主演の映画を観てしまった。

けっこう話題作ですが、どうなんだろうなぁ。自分には楽しみどころがよくわからなかった。ストーリーにはこれといって山場とか展開とかがあるわけじゃないし、なんか、観光紹介ビデオを観てるみたいな錯覚におちいるところもしばしば。とくに京都のシーンとか、そのシーンの存在の意味がよくわかんなかった。

渋谷にしても新宿にしても、ゲームセンターやクラブといった、子供たちが集ってわけのわからん盛り上がり方をする場所って、自分は行ったことがないし、行きたいとも思わないから、それらのシーンを観ても「ふ〜ん、こんなんなってるんだ」くらいの感想しか持てないし。カラオケのシーンなんて、自分のもっとも苦手とする雰囲気の集い。

ところどころ、おもしろいところはあるんだけど、それが単発で終わっちゃってるから、大きな渦になってこないんだよね。まぁ、そういう観方を期待してるのではないだろうけど。なんか、脈絡のない他人の日常を無関心に眺めてるような、そんな感じ。主人公のボブがホテルの部屋でくだらない深夜番組を観て虚脱感に襲われるシーンがあるけど、その立場にいま、映画を観ている自分がなったような印象。

スカーレットはあいかわらず唇半開きな芝居が多いし、『真珠の〜』では役として胸回りと腰回りになにか詰め物をしてるのかと思ってたけど、じつは自前で、あまりプロポーションがいい女優ではないこともわかった。ビル・マーレーはいい味出してたけど、スカーレットは普通だったな。

ただ、言葉の通じない、脈絡なく若者が盛り上がってる土地にひとりで置かれ、ちょっと弱ってるときに、ふだんは自分からはまず行こうとは思わないようなところへ連れ回してくれる、自分の日常を引っ掻き回してくれる、若くて快活な女の子がそばにいると、その娘に恋に似た感情を持ってしまうっていうのは、なんとなく共感できる。年齢差もあるし、いろいろなことで不釣り合いだから、恋人同士になることはないってことはわかってるし、そういう間柄になることを望んでいるわけでもないんだけど、でも恋しちゃうことって、あるよね、きっと。

シャーロットも、それが「恋もどき」だってことはわかってるはず。でも、自分できちんと整理できないのは、まだ若いからなのかな。その意味で、「大人」であるボブが、きちんと「終わり」をシャーロットにもいわせたのは、さすがだなと思った。

おそらく、ストーリーを追って観る映画ではなく、その時その時のシーンを「感じる」映画なんだろう。自分は東京に住んでいるけど、映画に映し出される「東京」にはなじみがないし、あこがれもなければ興味もない。どちらかというと嫌悪を覚える側面。そういう意味でも、自分には難しい映画だった。

(2004.05.29)

★映画『真珠の耳飾りの少女』

映画『真珠の耳飾りの少女』を観てきました。

『GIRL WITH A PEARL EARRING』
監督:ピーター・ウェバー(Peter Webber)
出演:コリン・ファース(Colin Firth)、スカーレット・ヨハンソン(Scarlett Johansson)、トム・ウィルキンソン(Tom Wilkinson)
2003年・イギリス・ルクセンブルク映画
100分

銀座のシネスイッチは、毎週金曜日がレディースデイだったんですね。知らずに出掛けたら、お客さんは女性だらけで、そのうえ満席という、なんだかすごく居心地の悪い鑑賞になってしまいました。上映前にアイスクリーム「彩」のプレゼントがあったのが唯一、レディースデイに紛れ込んでしまったつらさの報いとなったでしょうか。美味しかった。

映画のほうはというと、すごく静かな映画でした。余分なせりふや音のない、ヨーロッパらしい静寂がありました。

ストーリー的には、じつはあまり引き込まれるところはなかったなぁ。

最後まで観て感じたのは、自分の「分」というものをわきまえない人、理解しない人は、哀れだなということ。理解しないというよりは、気づいてはいるのだけどそれを認められない人、受け入れられない人、のほうが的確かな。あ、主にフェルメールの奥さんのことですけどね。とはいえ、フェルメールも使用人のグリートも、それぞれの分をはみ出しちゃったから奥さんがそれ以上に分をはみ出しちゃったんですけどね。

あと、題材が絵画だけあってか、映像のひとつひとつがとても絵画的というか、瞬間瞬間を切り取ったようなシーンがとても美しいです。とくに光と陰の使い方が秀逸で、そのコントラストがいかにもヨーロッパらしい。

こういった光と陰とのコントラストって、西洋絵画を見たりすると強く感じられるんですが、実際にヨーロッパに行くと、ちょっとした街角や小道でほんとに鮮やかに感じられるんですよね。絵画をドラマティックに演出する技法という面もあるのかもしれませんが、普通に日常の風景が鮮やかなコントラストに満ちているから、ああいう絵になったんじゃないかなと思います。

そのほかに印象に残ったことといえば、主役である使用人の少女グリートを演じたスカーレット・ヨハンソンの口が終始半開きで、個人的には、頭悪そうに見えていまいちだったこと。その唇が最近のヨーロッパ人(ヨハンソンという名字からすると、スウェーデン人ですか?)にしてはずいぶんぽってり系だなと思ったこと。ぽってりした唇を半開きということで、ある種のエロチック差を表現しようという意図だったのかもしれませんが、エロチックというよりは頭悪そう、あるいは鼻が悪そうと思ってしまった自分はアホウでしょうか。

それと、フェルメールを演じた役者さん、コリン・ファースでしたっけ。この人、名前を聞いたことがあるので、けっこう有名な人なんですよね、きっと。おそらく自分も出演作をいくつか観てるんじゃないかと思いますが、記憶にありません。で、そのフェルメールさんなんですが、いつの瞬間からか、彼の顔がどんどこどんのぐっさんに見えてしょうがなくなってしまい、いつ松方弘樹の真似をしだすかとか、なにか歌い出すんじゃないかとか、そんなことばかりが頭に浮かび、どんどん集中力がそがれていってしまいました。

う〜ん、こんな観方でよかったのだろうか(よくない!)。

(2004.05.21)




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