ALICE


biography

   アリーチェ/バイオグラフィ







 Alice(アリーチェ)ことCarla Bissi(カルラ・ビッシ)は1954年、イタリア中部エミリア・ロマーニャ州のForli(フォルリ)で生まれました。

 音楽活動を始めたのは非常にはやく、Aliceが18歳の1971年にカストロカーロ・フェスティヴァルで優勝、同年のサンレモ音楽祭に「il mio cuore se ne va」で参加しました。当時はまだ、本名のCarla Bissiで活動をしていました。  翌年には「La festa mia」でヴェネツィアのゴンドラ・ダルジェントに優勝、5年間で徐々に成功をつかんでいきました。

 1975年にAlice Visconti(アリーチェ・ヴィスコンティ)と名前を変え、ファースト・アルバム『La Mia Poca Grande Eta'』をリリース。アルバムからのシングルが好意をもって迎えられ、チャートにもランクインしました。
 セカンド・アルバム『Cosa Resta...Un Fiore』は1978年にリリースされましたが、こちらからもシングルがそれなりにヒットしました。

 1980年にEMIレーベルに移籍し、移籍後初のシングルとして「Il vento caldo dell'estate」をリリース。Franco Battiato(フランコ・バッティアート)とGiusto Pio(ジュスト・ピオ)という優れたミュージシャンのバックアップを受けてつくられたこのシングルは、Aliceの最初のビッグ・ヒットとなりました。  また、この年にリリースされたアルバム『Caponord』も、これまでにない優れた作品となりました。BattiatoとPioのアレンジにより、Aliceの曲は強い命を吹き込まれました。

 1981年にはAlice/Battiato/Pioによる曲「Per Elisa」でサンレモ音楽祭に参加し、優勝を手に入れました。この曲は同年にリリースされたアルバム『Alice』に収録されました。
 1982年のアルバム『Azimut』には、はじめてBattiatoとデュエットした「Chan-son egocentrique」が収録され、またシングル「Messaggio」のヒットにも恵まれ、高い人気を得ました。

 1983年にリリースされた『Falsi Alarmi』では、EMI移籍後はじめてBattiato/Pioの音楽的バックアップから完全に離れましたが、彼らはよき理解者として、Aliceを見守っていました。
 1984年にはBattiatoとともに「I treni di Tozeur」をユーロピアン・ソング・コンテストで披露し、国際的に高い評価を得ました。また、1985年にリリースされた『Gioielli Rubati』は、Roberto Cacciapaglia(ロベルト・カッチャパッリァ)のアレンジによる、Battiatoのカバー集となっています。

 1986年の『Park Hotel』では、大きく音楽性を変化させました。Francesco Messina(フランチェスコ・メッシーナ)の指揮のもと、Tony Levin(トニー・レヴィン)やPhil Manzanera(フィル・マンザネラ)といったイギリスの有名ミュージシャンを迎えてつくられたアルバムは、これまでよりもコマーシャルな音は少ないものの、高い音楽性を持った作品となりました。
 また1988年にはサティやラヴェル、フォーレといったクラシックの作曲家の曲を集めた『Melodie Passegeres』を発表し、新境地を見せました。

 その後も、元Japan(ジャパン)のRichard Barbieri(リチャード・バルビエリ)、元Van Der Graaf Generator(ヴァン・ダー・グラーフ・ジェネレーター)のPeter Hammill(ピーター・ハミル)、Morcheeba(モチーバ)のSkye Edwards(スカイ・エドワーズ)などとのコラボレーションを行ない、着実に自分の音楽を作り上げてきました。

 そして2000年のサンレモ音楽祭に、BattiatoファミリーのひとりであるRoberto Juri Camisasca(ロベルト・ユリ・カミサスカ)のペンによる「Il giorno dell'indipendenza」で、およそ10年ぶりに参加。独特の存在感を見せつけました。

(2000.05.03)








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