Flavio Mazzocchi: programmazione ed arrangiamenti
Amedeo Minghi: programmazione ed arrangiamenti
Massimiliano Rosati: chitarre
Davide Aru: chitarre
Gabriella Scalise: cori
Laura Serra: cori
Aisha Cerami: voce
Roberto Mezzetti: batteria, programmazione
もう、これ以上買うのはやめようと思っていたのですよ、Amedeo Minghi(アメデオ・ミンギ)のアルバム。1973年のデビュー・アルバムから2002年の『L'altra faccia della luna』まで、サウンドトラック盤とベスト盤を除けばおそらく全部のCDを持っていると思うのだけど、そして自分はAmedeoの音楽が好きだったのだけど、1992年の『I ricordi del cuore』を頂点に、その後の彼の作品は縮小再生産を繰り返しているように感じてしまい、聴いていて、なんだか寂しくなってしまうのですよ。それでも1998年の『Decenni』、2000年の『Anita』で少し盛り返したかと思ったのですが、2002年の前作『L'altra faccia della luna』を聴いて、もう自分にとっては追いかけるべきアーティストじゃなくなってしまったかもしれないと感じ、月を眺めながらひとり涙したのを思い出します(←うそです)。
このアルバムも、たまたまセールで安く売っていたので、つい買ってしまいましたが、買わなくてもよかった、というか、買わなければよかったかもしれません。
べつにアルバムの内容が悪いわけではありません。ここには、いつもどおりAmedeoの音楽が満ち溢れていますし、彼の優しい歌声もいつもどおりです。どの曲も、どのメロディも、以前と変わらずAmedeoらしいものです。
ただ、以前と変わらなすぎなんです。声も曲もメロディもこれまでと同じ。なのに演奏は、前作もそうでしたが、オール・プログラミングで(一部にギターは入ってますけれど)薄っぺらい。血の通った力強さやあたたかさや想いといったものが感じられない。結果として、これまでと同じ音楽だけど、スケールダウンといった印象になってしまうのです。
変わらないということは、ある一面でとても良いことではあります。求めた音楽を必ず提供してくれるわけですから。ただ、中心となるもっとも大切なものは変わらなくても、それを表現する方法は、もっとも効果的に表現する手段は、環境の変化等に合わせて変わってきても当然だと思うのです。実際Amedeoも、1980年代から90年代にかけては上手に環境変化を取り入れて、その時代が提供する技術を巧みに使って、彼の魅力を表現していたはずです。だけどいまは、1990年代に出会った、そしてその当時は彼の表現力を大きくサポートした、コンピュータ・プログラミングの枠にとらわれてしまっている感じがするのです。
端的にいって、いまのAmedeoのコンピュータ・プログラミングの使い方は、下手だと思う。同じコンピュータ・プログラミングでも、90年代には90年代の、2000年代には2000年代の、音源の使い方や組み合わせ方といったものがあるはずだと思うのですが、彼は2000年代の音源を90年代のやり方で使っているのかなぁと、そんな気がします。90年代の彼の作品よりも、いまの作品のほうが薄っぺらい音になってしまっているのは、そのせいなのではないかなぁと想像してしまいます。
M1「Il suono」もM7「Com'e' il tempo」も、キーボード・オーケストレーションにもっときちんと厚みと深みと奥行きがあればよかったのに。あるいは、ストリングス・オーケストラを使えばよかったのに。ドラムもベースも、プログラミングではなくミュージシャンにちゃんと演奏してもらえばいいのに。なぜAmedeoはすべての演奏をコンピュータ・プログラミングで行なうことにこだわるんだろう? Amedeoなら、費用的に厳しいということはないと思うのだけどなぁ。
もし次のアルバムもバックの演奏が全部プログラミングのようなら、今度こそ買うのはやめよう。好きなアーティストなのに、こういうふうに思ってしまうこともなんだか哀しいです。