1: ...A CENA, PER ESEMPIO
晩餐にて…
2: IL RAGNO
蜘蛛
3: E' COSI' BUONO GIOVANNI, MA...
善良なヨハネ
4: SLOGAN
スローガン
5: SI DICE CHE I DELFINI PARLINO
イルカのおしゃべり
6: VOILA' MIDA
祈祷師
7: QUANDO LA BUONA GENTE DICE
善良な民に聞け
8: LA NOTTE E' PIENA
洪水の夜
9: FINO ALLA MIA PORTA
我が戸口まで
つい、CDを買ってしまった。LPももってるんだけど、中古で1000円、盤質良好となれば、買わないわけにはいかない。
バンコはいままで1〜3枚目、それとこの『最期の晩餐』しか聴いたことがない。1〜3枚目もLPをもっているが、これらはCDになったときすぐに買い替えた。なのになぜ、『最期の晩餐』は買い替えなかったのか。
自分はあまりアルバムの音質にはこだわらない。もちろん録音がすぐれているならそのほうがいいのだろうが、べつにチープな録音でも、楽曲自体に心引かれるものがあるならば、それでかまわない。
たぶん、録音技術や音質そのものも含めた“空気”“イメージ”というものに何かしらの思い入れをもつタイプなのだろう(だから PINK FLOYD ファンってやつは・・・・というようなことを以前 FOOL'S MATE でいっていた北村氏の意見も、そうかもしれないと思ってしまう ^^;)。
たとえば、巨額の金と日数をかけて(?)修繕され、装いも新たに生まれ変わったシスティーナ礼拝堂の天井画。そこには多くの発見があった。
予想以上に明るい色使い。天井画完成後に宗教的(政治的?)理由から後日付け加えられた絵の下から出てきた“性器に噛みつく蛇”。それらはすべて、画家自らが描いた本来の姿。だからこそ、これはひとつの重要な作業であったわけだが、それが及ぼした影響は、絵自体だけでなく人間にも関係してくる。
本来のあざやかな色合いと新たに見えてきた図柄に、「非常に美しい。見やすい。隠されていた真実が露にされたことによる発見を喜ぶ」人がいるだろう。
また一方で、「長年親しみ、色のクスミや一部が隠された構図を含めてその絵を愛していた。修繕によってこれはもう“私の愛した天井画”とは違うものになってしまった。これはこれでよいかもしれないが、やはりあの“クスミ”のなかに私を引き付けるものがあった」と思う人もいるだろう。
自分の思うバンコの音楽は、いつも“クスミ”の向こうにあった。
もちろん、いつの時代のアルバムもバンコはバンコだろうし、すべてのアルバムのうち4枚しか聴いていない自分にバンコについて語る資格はないかもしれない。
それでも“私のバンコ”はアルバム『DARWIN!』であり、あるいは1st、そして『IO SONO NATO LIBERO』だった。
これらのアルバムと“最期の晩餐”は何が違うのだろうか。
LPで聴いたときから気になっていたことがひとつある。“ウルサイ”のだ。前面に出すぎている(と自分には感じる)ギター、そして何よりも鍵盤楽器が“キラビヤカ”すぎ、“鳴りすぎ”であり、“使いすぎ”に思えるのだ。
バンコのいちばんの“売り”は、フランチェスコのヴォーカルだと自分は思っている。力強く、しかも悲しみを内に秘めているような彼の声こそが、バンコというグループを非凡なものにしている最大の理由であると。
自分にはイタリア語が理解できないので、聴いていても歌詩の意味はわからない。しかし自分には、彼の声を聴いていると、たとえばエーコの『薔薇の名前』のような背景を思い描くことができる。
イタリアン・ロックにはいくつかのスタイルがある。それを大ざっぱ、大まかに無理やりふたつに分けるとすれば、「愛と夢を語り、希望を訴え続ける」ものと「歴史や自分と戦い、心のうちの傷や見せたくない部分を滲み出させる」ものになりはしないだろうか。
自分にとってバンコ、とくにフランチェスコの声は、後者の代表だった。“だった”ではなく、いまでもそうだ。そして初期のバンコは、その“声”を充分にバックアップし、声の効果を十二分に引き出すようなアレンジをしていたように思う。
しかし『最期の晩餐』では、やかましくて自己主張の強いバックが、せっかくの“声”を殺してしまっているように思えてしかたがないのだ。
キリストの受難というテーマにもかかわらず、フランチェスコの声からしかその悲しみは伝わってこない。それも明るいネオンサインの向こうに。
一般的に『最期の晩餐』はバンコの傑作として知られている。もちろんそれに異議を唱えるつもりはない。“名作”“傑作”といった言葉はただの記号であり、聴いた人がそう思うかどうか、その人数の絶対数が多いかどうかといった意味しかない。
ある意味でこのアルバムは、最近の音楽に慣れ親しんでいる人、イタリアン・ロックをあまり聴いたことがない人が聴くには、聴きやすいものなのかもしれない。ここから濃厚なイタリア・ヨーロッパの香を感じ、某かの衝撃を与えるに充分な作品ではあるだろう。
ASIA がデビューしたとき、多くのユーロ・ファンが彼らを「アメリカに魂を売ったヤツら」と呼んだにもかかわらず、一般のロック・ファンは「ヨーロッパの哀愁をふんだんに取り入れている」と感じたように。
しかし自分のなかでは、もう少し落ち着いた音色で演奏してくれていたならなぁ、という思いがいつも心に浮かんでしまうアルバムなのであった。