Riccardo Cocciante(リッカルド・コッチァンテ)のアルバムを聴くのはひさしぶりです。1970年代の『Poesia』や『Anima』などは若い頃、よく聴いていました。
70年代のアルバムでは、プログレッシヴ・ロックのファンにはVangelis(ヴァンゲリス)がアレンジを担当した『Concerto per Margherita』のほうがなじみがあるかもしれませんが、このアルバムについてはVangelisのアレンジが派手すぎて、Riccardoの持ち味が少し損なわれているかなぁと個人的には感じます。
それはともかく、この頃のRiccardoに対して自分が持っていた印象は、すごいダミ声で哀愁に満ちたメロディを熱唱するというもの。なんといっても、声と歌い方のインパクトがとても強烈でした。
でも、いまになって『Poesia』などを聴きかえすと、意外と繊細なメロディをさりげなく歌っている部分も少なくないことに気づきます。どことなくシャンソン風な香りもあるのは、Riccardoがイタリア人とフランス人のハーフ(らしい)だからでしょうか。初期のころはRichard Cocciante(リシャール・コッシァント)名義でフランス語のアルバムもいくつかリリースしていたようですが、こういう作風ならフランスでも受け入れられそうです。
自分は1980年代以降の彼の作品をほとんど聴いていません。ずいぶん声が出なくなったとか、曲調もかなりポップになったとか、いろいろな噂だけは耳にしていましたが。なので、1991年にリリースされたこの『Se stiamo insieme』を聴くのも、ちょっと心配ではありました。
とはいえ、大ヒットとなったミュージカル『ノートルダム・ド・パリ』の音楽を担当するなど、ソングライターとしての評価はいまでも充分に高いし、実際、このミュージカルに出演していたフランスのBruno Pelletier(ブリューノ・ペルティエ)のアルバムに収録されたRiccardoの曲もよいメロディを持っていたので、そんなに悪い作品ではないだろうと思ってはいましたけれど。
さて、それではこのアルバムを実際に聴いてみてどうだったかというと、事前の不安と期待がほぼそのままに感じられるアルバム、といったところでしょうか。
声はあいかわらずひび割れていますが、若い頃のように熱唱することも爆発することもなく、おだやかな歌い方になっています。もう、あの熱さや、一気に感情の頂点にまで登りつめるような爆発力にあふれたパッションは、伝わってはきません。そのかわり、いくらかの余裕を持った情感と哀愁が漂っていて、以前よりも素直に聴きやすい音楽になっているといえるでしょう。
音のほうも、制作や演奏が主にフランス人によって行なわれているためかもしれませんが、イタリア的な緩急の差の激しい音楽というよりは、フランス風のさりげなさやセンチメンタルを感じます。
アルバム・タイトル曲の「Se stiamo insieme」は、ほどよい洗練と、フランスとイタリアの哀愁が入り混じったような優しいバラード。曲名は「もしも一緒にいられたら」とでも訳すのかと思いますが、そんな気持ちが伝わってくる曲です。
一方「Jimi suona」はアメリカンなコーラスが派手すぎ、エレキ・ギターの音も派手すぎで、せっかく「Se stiamo insieme」で盛り上がった感情をみごとに消し去ります。
そうかと思うと「Per tornare amici」は『Poesia』の頃の作風を感じさせ、さりげなくおだやかななかに哀愁がたっぷりと込められています。サックスの響きもロマンティックでよいのですが、この3曲の流れというか並べ方は、ちょっとばかし配慮が足りないような気もします。
また「Non si perde nessuno」は、明るくやわらかな曲調のなかに青年のような恥じらいが感じられ、なかなか魅力的な曲です。
ロック風の演奏も多いのですが、すっきりとしたなかに都会の哀愁を漂わせる、大人のためのラヴ・ソングといった趣も強いアルバムです。