TITO SCHIPA JR.


biography

   ティト・スキーパ・ジュニア/バイオグラフィ







 Tito Shipa jr.(ティト・スキーパ・ジュニア)ことTito Luigi Giovanni Michelangelo Schipa(ティト・ルイジ・ジョヴァンニ・ミケランジェロ・スキーパ)は、クラシックの演奏家として名高いTito Sr.(ティト・シニア)と彼の2番目の妻であるTeresa "Diana" Borgna(テレザ・ダイアナ・ボルニャ)の間に、Tito Sr.のツアー中、ポルトガルのリスボアで生まれました。

 5歳までハリウッドで暮らしたのち、パリ、北イタリアへと生活の拠点を変えました。そして1955年からローマに住み、現代文学、東洋の宗教、音楽や演劇の歴史、モダン・ダンス、歌、ピアノの勉強をしました。独学で音楽を勉強したTitoですが、イタリア作曲家協会により一級作曲家と認められました。
 音楽以外にもスポーツが得意で、アスレチックやフェンシング、射撃、乗馬、空手などで活躍しました。

 プロの音楽の世界には、Giorgio De Lullo(ジョルジョ・デ・ルッロ)、Giancarlo Menotti(ジャンカルロ・メノッティ)、Luigi Squarzina(ルイジ・スクアルジナ)、Lina Wertmuller(リナ・ウェルトミュラー)のステージ・アシスタントとして、ミュージカル・ショウから入りました。

 Titoのデビューは1967年5月にローマで行なわれた「Then an Alley」というステージでした。これは世界で最初の、Bob Dylan(ボブ・ディラン)の歌詞をベースにしたポップ・オペラでした。

 そして1970年に、彼自身の作曲によるイタリア初のポップ・オペラ『Orfeo 9』が世界で上演されました。この作品はアルバムとしてもリリースされ、そこにはTito以外にも、Loredana Berte'(ロレダーナ・ベルテ)、Renato Zero(レナート・ゼロ)、Tulio De Piscopo(トゥリオ・デ・ピスコポ)など、のちにイタリアン・ポップス界で活躍するシンガーたちが参加しています。

 その後、1974年に『Io Ed Io Solo』、1982年に『Concerto per un Primo Amore』という良質のポップス・アルバムをリリースし、イタリアン・セカンド・ジェネレーションと呼ばれました。
 この2枚は、内容のよさが一部のファンの間で語り継がれていますが、残念ながらCDでの再発が2000年5月の時点では1度もされたことがなく、またLPも現在では入手困難となっているため、その音に触れることが難しくなっています。ポップ・オペラでなく、またカバー集でもない、純粋にTitoのオリジナルなソロ・アルバムで、内容もよいことから、再発が望まれる作品たちです。
 ただ、Tito本人は、とくに『Io Ed Io Solo』については、はじめて普通のポップスを歌った作品であり、よい部分はたくさんあるけれども、全体としては自分の歌に満足していないと以前、教えてくれました。

 その後は舞台での活躍に戻り、オリジナル・アルバムはリリースされていません。1980年代の終わりごろに、Bob Dylanのイタリア語によるカヴァーを集めた『Dylaniato』という作品がリリースされているだけです。

 1975年には、ローマのトラステヴェレ(Trastevere)に劇場をつくりました。1983年にはドニゼッティの「Don Pasquale」をTitoがロック・アレンジしたものが、Joe Papp(ジョー・パップ)のプロデュースによりブロードウェイで公演されました。
 また、「Opera Full Immersion」と名づけられたTitoのドラマトゥルギー(劇作術)のセミナーが、ナポリのオリエンタル大学(the Oriental University)で行なわれました。

 TitoはイタリアにおけるBob DylanとJim Morrison(ジム・モリソン)の公式翻訳家で、さまざまなミュージカル・ショウの監督、作家、作曲家、役者でもあります。イタリア語以外に、英語とフランス語も使えるそうです。

(2000.05.03)








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