一部のプログレッシヴ・ロック・ファンのあいだで大評判のアルバム。もともとはイタリアの新聞『La stampa』の読者向けに限定リリースされたCDです。
New Trolls(ニュー・トロルス)のリーダー、Vittorio De Scalzi(ヴィットリオ・デ・スカルツィ)率いるLa Storia dei New Trolls(ラ・ストーリア・デイ・ニュー・トロルス)というプロジェクトが、名作と名高いNew Trollsの「Concerto grosso n.1」「Concerto grosso n.2」を、トリノ・フィルハーモニック・オーケストラ(Orchestra filarmonica di Torino)を従えて演奏したコンサートを収録してあり、アルバムの感動を完全に再現した ―― と、あちらこちらで高い評価を得ています。
アルバムと同様、オーケストラのチューニングで始まり、タクトが指揮台を叩くと一瞬静まる。そして、よく知ったヴァイオリンの旋律が奏でられ、そのまま華麗で哀愁に満ちたバロック・ロックの世界にぐっと入り込む ―― はずだったのだけれど、ちょっと印象が違います。
たしかに、アルバムのあのフレーズとアレンジは再現されています。だけど、なにかがたりないんです。たとえば、オーケストラに深みが足りないし、ギターやドラムにパッションが足りない。だから、曲にこめられた想いの強さが、あまり伝わってきません。
なんとなく、Roger Waters(ロジャー・ウォータース)が抜けたあとのPink Floyd(ピンク・フロイド)がDavid Gilmour(デイヴィッド・ギルモア)のヴォーカルでRogerが歌っていた曲を演奏しているような、よくできたコピーのような印象を受けてしまいました。このライヴでは「n.1」と「n.2」の両方が演奏されていますが、とくに「n.1」のほうにその印象を強く感じます。
同じ「Concerto grosso」というタイトルがついてはいても、「n.1」と「n.2」では制作された年に5年の開きがあります。それもあってか、曲の感じもかなり違います。クラシカルでバロック的なドラマ性と哀愁に満ちた「n.1」に対し、「n.2」はずいぶんとカラフルで明るい印象があります。
自分としては、ドラマティックな「n.1」のほうが圧倒的に好きっだのですが、このライヴでは「n.2」のほうが心地よく耳に届きます。それは、すでに「n.1」が曲としての旬を過ぎてしまったということもあるかもしれませんが、それとは別に、すっきりとはしているけれどあまり思い入れの感じられない淡白な演奏にも、原因があるような気がします。
オリジナルの「n.1」には、スコアに書かれたメロディや楽器の音だけでない、あの時代だからこそのなにか ―― 一瞬にかける熱い意識のようなもの? ―― も、一緒に封じ込められていて、その「なにか」が「メロディ」や「アレンジ」以上に「Concerto grosso n.1」という作品の魅力となっていたように思います。対して「n.2」のほうは、より「曲」としてのクオリティが上がり、その分「なにか」を織り込む予知が少なくなっているというか、「なにか」の部分が希薄でも充分に楽しめる作品になっているといえそうです。
この違いが、オリジナルを聴いたときには「n.1」を高く評価したのに対し、このライヴでは「n.2」のほうがよいものに聴こえる理由なのかもしれません。
演奏、録音ともクリアで、音色もスッキリしています。はじめて「Concerto grosso」を聴く人や、むかしのもっさりした音が好きでない人などにとっては、「Concerto grosso」という楽曲のよさをアピールするに充分なライヴだと思います。でも自分は、クリアにすっきりと「聴こえる」ことで、かえって「聴こえなくなった」気がするなにかに愛着を感じてしまいます。それは、たんにオリジナルの「Concerto grosso」に対する愛着のせいなのかもしれません。
それと、「Concerto grosso」はたしかによい楽曲だけれど、New Trollsの「歌」の魅力は「Una miniera」や「Signore, io sono Irish」のほうに、より強く感じます。